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東京オリンピック (1965)監督・市川崑


開始より1:58(東京都新宿区霞ヶ丘町・国立霞ヶ丘陸上競技場千駄谷門前)



(撮影・2012・09・02)

1964年、東京オリンピック。
この大会の公式記録映画は市川崑が監督することになった。
その中から東京の街が映るマラソン競技のコースを見てみることにした。
選手たちは昭和39年10月21日午後1時、千駄ヶ谷の国立競技場をスタートする。
実況のアナウンサーはこのマラソン競技の当日、東京はどんより曇った湿度の高い日だったと伝えている。
(2012年9月記)



開始より1:59(東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目・明治通り)



(撮影・2012・09・02)

国立競技場を出た選手たちは国鉄(現JR)千駄ヶ谷駅前を通過、右折し明治通りに入る。
明治通りに入るとまもなく国電中央線と交差する。ガード下を南から北へくぐり抜けた地点から選手たちがこちらに向かって来る様子が映し出される。
作品には道路上に横断歩道の白線が写っている。1963年の航空写真と現在の航空写真を比べると同じ位置に横断歩道があるようだ。現地に行ってみると、そこにはたしかに信号があり、横断歩道がある。
巡礼写真でも同じ位置からの撮影ということを示したいので、この横断歩道の白線を写し込みたかったのだけれども、撮影位置が前過ぎた。トリミングで道路と電車の位置を優先させると横断歩道の白線が惜しいところで入らない。残念。(対向車線の停止線は写っている)

撮影位置が前過ぎたのには訳がある。
横断歩道の歩行者用信号が青に変わると横断歩道の中程まで行って写真を撮るのだが、信号で止まる車がすぐに来てしまうので、あまり後ろに下がれない。しかも作品の画面を見ると、普通に立ってカメラを構えた高さよりやや高めから撮影されたように見えるので手を上にかざす。道路の真ん中、信号待ちの車になるべく近づいて手を上に挙げて写真を撮る。「いったい何やってるんですか?」という信号待ちしている車の運転手さんの視線が背中に刺さる。
撮影に夢中になってぐずぐずしていると危険なので、信号が点滅する前に早々に歩道に引き上げる。
しかもぜひ中央線が通過している時を狙いたい。信号と電車通過のタイミングがなかなか合わない。何度も信号を見送る。しかし、ま、一応なんとか。



開始より1:59(東京都新宿区新宿4丁目・新宿四丁目交差点)



(撮影・2012・09・02)

明治通りを北上し新宿へ。
左折し甲州街道へと入る。折り返し地点の調布までは遠い遠い一本道。
線路をまたぐ坂を上った右側が新宿駅南口、現在はルミネなどもある。左側(南側)の現在はデッキにオシャレな店が建ち並んでいたり、ホテル、高層ビル、タカシマヤタイムズスクエアなどが建って賑わっている。しかし当時は広大な新宿貨物駅があったりで、商業的にそれほど開けている地域ではなかった。
マラソン競技の沿道は入場券無しで見られるから、どこもかしこも見物客でひしめいている。沿道には190万人が集まって声援を送ったという。





開始より1:59(東京都新宿区西新宿1丁目・西新宿一丁目交差点付近)



(撮影・2012・09・09)

新宿駅南口を過ぎると今度は下り坂。西新宿1丁目の交差点。
現在は甲州街道沿いにビルが建ち並んでいるが、当時は木造の商店が多かったようだ。
この交差点を右方向に行くと新宿西口広場。映し出されている甲州街道の右奥は現在はカメラやパソコンの販売店が多い地域だ。
さらにその西、甲州街道と青梅街道に挟まれた広大な敷地に、1964年時点では淀橋(よどばし)浄水場がまだ一部稼働していた。しかし翌1965年には閉鎖され、その跡地に新宿副都心の建設が始まることになる。



開始より2:02(東京都調布市飛田給1丁目)



(撮影・2012・10・21)

折返点。現在の味の素スタジアム前だ。
この時点ですでにエチオピアのアベベがトップ。
後で気が付いたのだが、東京オリンピックでマラソン競技が行われたのが10月21日。調布に撮影に行ったのも偶然10月21日。
狙ったわけではないが、気が付いてみると「この日だったのか」と感慨が深まる。


(撮影・2012・10・21)

折返点脇には「マラソン折返し地点記念碑」が建てられている。甲州街道を走行する自動車に対しても「オリンピック東京大会マラソン折返点」と書かれたパネルがポールで掲げられている。
記念碑の裏面には

昭和三十九年十月二十一日
第十八回オリンピック東京大会マラソン競技はこの地点で折返した
調布市
オリンピック東京大会組織委員会
昭和四十年五月建立

と刻まれている。





開始より2:02(東京都調布市飛田給1丁目)



(撮影・2012・10・21)

折返点の場面のすぐ後、アメリカ選手を応援するアメリカ人少年少女たちが映る。
矢印のプラカードには「USA CHOFU AMERICAN JR. HIGH SCHOOL」と書いてあるのが見える。中学校のようだ。背後に運動場のような広場を挟んで見える建物は、その校舎だろうか。
だとするとここは折返点の北側にあった「関東村住宅地区及び補助飛行場」のはずだ。

少年少女たち、まるで映画「アメリカングラフィティ」にでも出てくるようなファッションだ。1964年といえばアメリカ人ファッションをお手本にしたアイビールックが日本に上陸し、流行しだしたちょうどその頃。日本人少年少女から見れば「これが本物か」といったところだ。

現在の代々木公園、国立競技場などがある場所は、戦後「ワシントンハイツ」という米軍の駐留軍人や、その家族のための住宅施設であった。
1964年に東京でオリンピックが開催されることになり、それに合わせて「ワシントンハイツ」は日本に返還、各国からの選手団を受け入れる選手村として使用することになる。米軍の住宅を改装して選手宿舎としたのだ。
そのワシントンハイツの代替住宅施設として建設されたのが、この調布の「関東村」なのだ。
「関東村」は通称「調布基地」とも呼ばれた。
1973年、「調布基地」は日本に全面返還された。
現在は主に民間航空に使用されている「調布飛行場」のほか、「味の素スタジアム」などが建設されている。
(ちなみに「味の素スタジアム」は命名権による呼称。元来の名称は「東京スタジアム」で東京都が所有)



上の航空写真は1974~78年頃(1964年が入手できなかったので)と現在とを同じ範囲で比較したもの。左の古い方の写真は返還後であるが、まだ米軍の住宅施設が残っていて、関東村だったころの様子を見ることができる。

「大冒険」に引き続きまたも荒井由実の「中央フリーウェイ」を引き合いに出し恐縮だが、歌詞の中で「中央フリーウェイ 調布基地を追い越し・・」と唄われている。この歌が発表されたのは1976年。調布基地が米軍から全面返還されてからのことだが、八王子に生まれ育った荒井由実にとって通り道にある「調布基地」は,返還されて何年か経っても「調布基地」だったのだろう。返還後も一般にはそう呼ばれることも多かったことが分かるようで面白い。
中央フリーウェイ 荒井由実(松任谷由実)



現在も代々木公園内にワシントンハイツ時代の米軍ハウスが一棟だけ記念保存されている。この1棟はオリンピック時にはオランダ選手の宿舎として使用されたとのことだ。

話がマラソンから外れてしまった。ではコースに戻ろう。トップのアベベはすでに復路を新宿付近まで来ている。ゴールの国立競技場はもう近い。



開始より2:11(東京都新宿区西新宿1丁目)

カメラは建築中のビルを捉える。工事をしている人たちも足場に乗ってマラソン競技を見ている。
このビルは建築中の京王百貨店だ。現在では手前にルミネ(JR系の商業施設)が出来て、同じ位置から京王百貨店を見ることは出来ない。
京王百貨店は1964年11月1日に開業したとしてある資料がある。そうだとしたらこの日からわずか10日後だ。工事を続けながらの開業だったのだろうか。



開始より2:12



トップ集団は再び国立競技場に近づいた。この時点でトップのアベベに続き第2位を力走する円谷選手。沿道では同大会、女子80メートルハードルで5位入賞の依田郁子選手が声援を送っているのが映る。
円谷選手はこの後、昭和43年1月9日、「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい」と遺書を残し、練馬の自衛隊体育学校宿舎の自室で自殺をとげる。
東京オリンピックで陸上競技の入賞者は,このマラソンで3位に入る円谷選手と、依田郁子選手の2人だけであった。その依田郁子選手も昭和58年10月14日に茨城県の自宅で自殺している。



開始より2:13(東京都新宿区霞ヶ丘町・国立霞ヶ丘陸上競技場青山門付近)





(2012・09・09 撮影写真に映画画面をはめ込み)



アベベが独走状態で聖火の燃える国立競技場へ入場しようとしている。

1位 アベベ・ビキラ(エチオピア)2時間12分11秒2 世界最高記録、オリンピック最高記録(当時)
2位 ベイジル・ヒートリー(イギリス)2時間16分19秒2
3位 円谷幸吉(日本)2時間16分22秒8
8位 君原健二(日本)
15位 寺沢徹(日本)

背筋を伸ばし黙々と走るアベベの表情は、まるで哲学者のようだ、とよく表現される。
市川崑監督のこの作品の中のアベベは、スローモーションと望遠レンズの効果でそれが感動的に伝わってくる。
マラソンだけではなく、各競技での選手たちの表情、観客の表情、とても素晴らしい。
当時は「記録か芸術か」で議論を呼んだ本作品だった。今見直してみると、限られた時間の中で見事な作品に仕上がっていると思った。 あらためて面白いなあと思った。
1964年の日本人、1964年の外国人、1964年の東京の街。今見るとその生の姿に、何故かとても感動する。



注・開始よりの時間経過表示は、2004年に編集された「東京オリンピック 40周年記念 市川崑ディレクターズ・カット版」によるものです。


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